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人間関係は1つの道から大勢につながっていく 日本刺繍作家 宮崎静花

一流の職人に学ぶ「仕事の流儀」第5回

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(写真=The 21 online/宮崎静花 日本刺繍作家)

 

職人の仕事を通じ、仕事で大切なことを学ぶ本連載。第5回目は、日本刺繍作家として数々の作品を美術館へ出品し、国内外から高い評価を受ける宮崎静花氏にお話をうかがった。

職人とは遠い士族の家系に生まれる

針と絹糸を使い、布地にさまざまな紋様を表現する日本刺繍。中でも、人物を刺繍する肖像刺繍は難しい。そんな肖像刺繍を得意とするのは、日本屈指の日本刺繍作家・宮崎静花氏。静花流の刺繍は、豊かな配色や糸の太さに強弱をつけた刺し方によって、一枚の絵画のような立体感のある刺繍を制作するよう努めているのだという。

こうした技術は、どのようにして身につけたのだろうか。まずは、宮崎氏が日本刺繍を始めたきっかけからうかがった。

「私は、18代続く士族の家系に生まれました。武士道精神のもと、厳しく躾けられ、小さな頃からたくさんの習い事をしていましたが、日本刺繍は習っていませんでした。母はお裁縫は習っており、それを通じてゆくゆくは私に日本刺繍をさせたいと考えていたようです」

一般的に、伝統工芸の職人は、代々職人の家系に生まれたケースが多い。しかし宮崎氏は、日本刺繍を生業とした職人の家に生まれたわけではない。高校までは、日本刺繍作家になるとは夢にも思っていなかったという。しかし、ある作品に出合ったことがきっかけで、日本刺繍にのめり込んでいったという。

「高校卒業後は、叔母が卒業した戸板裁縫学校・現戸板女子短期大学に進学しようと考えました。

叔母が足利学園の創設者でしたので、入学時に校長室へご挨拶へあがったのですが、そこには日光森林警備隊を描いた刺繍が飾ってありました。それがあまりにも綺麗で……。自分もこんな作品を作ってみたいと思ったのが、日本刺繍を始めたきっかけです」

その後、宮崎氏は同大学の被服科で日本刺繍を熱心に学んだ。その後、卒業の時期になってもまだ勉強を続けたいと、同大学の研究室へ残ったという。

「当時の我が家は、士族の家系で、女性が働くことは当時タブーに近かった。しかし、習い事は、着物や宝石を買うよりも、身につくから良いという母の価値観が後押ししてくれたのかもしれません。好きなだけ勉強をさせてくれました」

その後、宮崎氏は大学の研究機関に残り、助手・講師として勉強に励み続けた。

研究室を離れ職人の世界へ飛び込む

(写真=The 21 online)

 

日本刺繍の歴史は古く、飛鳥時代に仏教とともに伝わったと言われている。その後、日本刺繍は各地で独自の発展を遂げてきた。たとえば、京都の糸は細く、平糸刺繍が多かった。また、江戸では多少太かったのだという。

ただその一方、もっと実践的な技術を身につけるには、研究室にこもって勉強するだけではいけないとも感じていたという。

「研究室に入り、3年目のことです。『日本刺繍の道で生きていきたい』と考えた私は、同大学で講義を持っていた日本屈指の染繍工芸家である野口真造氏に弟子入りを志願しました。

ところが、野口氏は、『刺繍しかできないのであれば、うちへは呼べないよ。まずは、自分をもっと磨いて、技術向上してからお出でなさい』と断わられてしまいました」

それを聞いて宮崎氏は、日本刺繍を軸に、茶道や日本画・洋裁・生け花、香道、弓道。謡曲、袋物染、英語、料理などといった習い事に一層力を入れるようになったという。

「今思うと、その言葉は『一つのことだけに長けていても、表現の幅が狭くなって、作品の伸びやかさが生きない、だからこそ人間味をつけよ』という意味だったように思います。さまざまな経験を重ねるからこそ、豊かな作品ができあがるのではないでしょうか。

これは仕事にも言えることで、どんな経験も肥やしになると考えれば、無駄な仕事など一つもないのかもしれません」

その後、宮崎氏は職人の世界に飛び込むことになった。

「短大の研究室の上司の紹介で、上野の根津にある樫村工藝研究所で修業させてもらうことになりました。そこは、日本刺繍の職人さんが多く、高齢の先輩、中卒から大卒までいました。代表の樫村大六氏の娘さんに師事しました。修業期間中はほぼ無給でしたが、あらゆる技術を学ぶことができたので、苦しくても楽しかったのを覚えています」

師匠を超えてしまい研究所を「破門」に

(写真=The 21 online)

 

宮崎氏は、京の細い糸と、江戸の太さの中間の糸を考案したという。ただ、肖像刺繍に関しては部分的に細糸を使用して製作する。

とはいえ、修業中は9:00から18:00まで正座し続けていたのがとてもきつかったという。

「印象に残っているのは、師匠が不在のときに起こった出来事。多くの繍い人が足を崩していたのですが、その様子をしっかりと娘師匠の母が監視していました。俗に申す、障子に目あり壁に耳ありです。右の言葉と母に教えられた『地にいて乱を忘れず』を思い出した結果、トイレに行く以外に足を崩さなかったため、また一段と信頼してくださり、さらに新しい技術を教えてくださいました」

宮崎氏はいつも手を抜かず、技術の向上に余念がなかった。しかし、この向上心が仇となり、ある事件が起きてしまう。

「修業開始から5年、先輩から上達を見込まれ、人物を刺繍する肖像刺繍を教えてあげましょうと先輩に声をかけられました。私は『ぜひ』と思ったのですが、少し気にかかることがありました。

当時、大六氏が亡くなり、娘さんが研究所を継いでいたので、彼女が代表となりました。ですが、彼女は顔の刺繍が苦手なようでした。もし、私ができるようになれば、彼女の面目は丸つぶれです。

ただ、どんどん新しい技術を吸収したい私は、抑えきれずにその温情に甘えて通い指導を受けました。

それでも、どこから秘密が漏れたのか、破門同然の扱いを受けました。それでも、研究所にはお世話になったのですから、そんな対応を受けてからもお礼奉公を2年のところ、3年続けました。針のむしろでしたけどね(笑)」

結果的に、宮崎氏は28歳で独立することになった。

その後、カルチャーセンターなど、いくつかの刺繍教室を掛け持ちしていたという。しかし、月謝は最低限しか貰わなかった。

「修業時代には金銭をいただきませんでした。お金が発生すると手が荒れると教わりました。その教えが沁みついているのだと思います。依頼者の心を読み、より一層良い作品を刺すには、お金のことを考えてはいけないと言われたのです。

厳しかったですが、すべてよい経験と教えを身につけさせていただいた修業時代でした」

また、並行して刺繍作家としての活動もスタートした。

「短大でお世話になっていた先生の紹介で、手工芸協会という組織に所属させていただきました。そこで、美術館への出品を勧められ、1年に1作のペースで作品を作り始めました。

そんな折、石川県能登半島で観賞した揚羽の蝶を能の世界でイメージし、歌舞伎の配色を融合した風呂先屏風を製作しました。その作品が、偶然にも他国を回って、モナコの宮殿に作品はゆきました。

その後、展覧会出品がご縁で協会の創設者と共に現代手工芸作家協会発足の一人となり、ここで先代会長に手工芸・作家の心得他を教えていただきました。この教えが、現在も活動しているネオ・ジャパニズム委員会の活動に生きています」

1つの軸から人の縁はつながっていく

現在、宮崎氏は日本刺繍作家として作品を作り続けるだけでなく、海外に日本の伝統芸能を発信する活動も行なっている。

「ネオ・ジャパニズムの活動のきっかけは、在宅介護十年の母の遺言でした。最期に『私に代わって、世に恩返しを』という言葉を受け、私にできることを考えたのです。

そこで、自分を育ててくれた日本刺繍を通じて恩返ししようと決めました。ただ、社会に広く還元できる活動を考えると、作家個人としての枠組みではなく、日本の伝統文化を世界に発信する活動をしようと思い至ったのです」

2005年の設立以来、宮崎氏はウイーン三回、ボストン、サンフランシスコ、リトアニア共和国、ハワイや韓国など、世界各国で展覧会を催し続けている。2年毎に海外の芸術家に審査してもらう特別展覧会を開催しているのだ。

「日本刺繍を始めて、多くの出合いにより人に助けられてきました。作家として活動を続けられるのも、人の縁に恵まれたからです。また、大勢の人と関わってきたことで成長できました。

ただそれは、日本刺繍で一本筋を通してきたからこそ。人間の関係は、一つの軸を起点に、大勢の人と関わっていくものです。そこでできた人々との縁をむげにせず、大切にしてみてはいかがでしょうか」

宮崎静香(みやざき・せいか)日本刺繍作家
東京都出身。18歳から日本刺繍を始め、28歳で独立。日本の文化と手工芸・工芸の発信とその技術向上を目指すネオ・ジャパニズム委員会の委員長を務める。現在、NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』の日本刺繍の実技指導も行なっている。(写真撮影:長谷川博一)(『The 21 online』2017年5月号より)

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