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自分の満足より、相手への「もてなし」を 日本画家 アラン・ウエスト

一流の職人に学ぶ「仕事の流儀」第8回 自分の満足より、相手を「もてなす」作品を

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(写真=The 21 online)

 

職人の仕事を通じ、どの仕事にも共通する大切な心構えを学ぶ本連載。第9回目は、日本で活躍するアメリカ人の日本画家であるアラン・ウエスト氏に、仕事に対する心構えをうかがった。

父の難題をクリアし、全米トップの美大へ進学

東京都台東区谷中にアトリエ兼ギャラリーを構えるアラン・ウエスト氏。日本へ来て30年近くアメリカ人の日本画家として活動し、植物をモチーフとした繊細な絵を中心に描き続けている。なぜ、日本画を制作し始めたのだろうか。まずは、アラン氏が絵を描き始めた原点からうかがった。

「私が、画家を志したのは8歳の頃。担任だった先生から『目指すべき目標があれば、人生の路線を決めやすい』と言われたのがきっかけです。9歳の頃から油絵の教室に通うようになりました。とはいえ、3歳の頃から裏庭の植物を楽しそうに描いていたようです。今でも自分にとって何よりも美しいのは植物ですが、当時からその気持ちは変わっていません」

14歳のときには、すでに注文制作を請け負うようになった。

「初めは、劇団のビラやポスターなどを描いて小遣いを稼いでいたのですが、そのうちに舞台背景画を描いてほしいという依頼があり、段々と大きな仕事も任されるようになっていきました。

今の仕事は注文制作がほとんどですが、そのときの体験が今に活きているのかもしれません。相手がどういう作品を求めているのか、納期から逆算して今日はどこまで作業すべきか、などといった仕事の基本的な姿勢を学ぶことができました」

高校に進学後もスミソニアン美術館主催のコンクールに出展するなど、熱心に絵を描き続けた。ただ、ここで大きな問題に直面する。

「私は、画家としてキャリアを築きたいと考えていましたが、親の強い反対がありました。 いよいよ大学を進学する年齢になったときは、弁護士だった父と相当やりあいましたね。そんな中でも祖母が間に入って中を取り持ち、『お前にも、夢を抱いていた時代があったじゃないか』と父を説得してくれたのです。

すると父は、『アメリカでトップの美術大学に進学するのならば、画家になってもいい。できなければ諦めろ』という条件付きで受験を許してくれました。どうせ合格できないと思っていたのでしょう」

しかし、父親の予想を裏切り、アラン氏は競争率50倍という高いハードルをクリアし、カーネギーメロン大学芸術学部絵画科に合格した。

アラン氏のアトリエ兼ギャラリー「繪処アラン・ウエスト」。ここで絵を制作し、販売もしている。(写真=The 21 online)

 

日本画や西洋画といったジャンル分けは意味がない

大学への進学が決まり、入学を目前に控えた夏の終わり。アラン氏にある公募展で後の人生を決定づける出来事が起こった。

「私の絵を見たお客さんが、私の絵を見て『日本で使われている技法で描かれた絵と似ているね』と言ったのです。顔料に兎のニカワを混ぜて絵の具を作るなど、独自の発明だと思っていた技法がすでに日本にあっただなんて、とてもショックでした」

アラン氏は、植物を表現するにあたって、思い通りの線を描けない油絵の画材には不満があり、試行錯誤を重ねながら絵の具やキャンバスを製作していたのだという。ただ、がっかりはしたものの、試行錯誤した時間は無駄ではなく、大切な経験だったと振り返る。

「画家だけでなく、表現を生業にする人間にとって、自分のスタイルを模索するのは大事な仕事。魅力的な作品には、必ず自分なりの表現があるものです。自分なりの表現は簡単に習得できるものではなく、試行錯誤して手に入れるものなので、若い頃からそうした経験を積んでよかったと思います」

また、自分の求める絵の技法が確立されていることに安心もしたという。

「すべて自己流でやっていましたから、上手く描けるときもあれば、描けないときも多々ありました。でも、技法を学べば、上手く描けたときの再現性が高まるはず。この頃から、日本画の描き方や画材に興味を持ち始めました」

その後、アラン氏は、カーネギーメロン大学で1年間デッサンなどを学んだ後、来日。2年かけて日本画を研究し、納得のいく画材を探し歩いた。ここで油絵から日本画に転向したのかと思いきや、そうではないという。

「私の中で日本画を描いているという感覚はとくにありません。日本画や西洋画といったジャンルに分けてしまうと、作品の幅が狭まってしまうからです。それよりも、いかに植物を美しく描くかを追求した末に、日本画の表現が最適だったという感じです」

掛け軸や版画を始め、屏風や襖絵などさまざまな対象に絵を描く。写真は、パネルに描いた龍を、アトリエの天井にはめ込んだ作品。(写真=The 21 online)

 

古道具屋で見つけた明治期の「絵ハガキ」と「矢立」

2年間日本に滞在した後、アラン氏は再びアメリカへ戻り、大学を卒業。そして、再び来日し東京藝術大学日本画科の加山又造氏に師事した。加山氏に師事した理由は何だろうか。

「加山先生は、伝統的な日本画の世界でも、意欲的に新しい表現に挑戦する方でした。そして、何よりも生徒たちの価値観を理解したうえで、自分の表現技法を押しつけずに『こんなやり方もあるよ』と提案してくれる先生だったのです。

美大では、自分の技法や世界観を見いだせないまま卒業してしまう人は少なくないですが、『自由に表現する先生』『生徒たちに自分の表現を押しつけない先生』に師事すれば、きっと成長できるはずだと考えたのです。ちなみにこれは、良い師匠を見つけるためのアラン流のアドバイスです(笑)」

また、ちょうどこの頃に、アラン氏の身体の一部とも言える「矢立」に出合ったという。

「私は、昔の市井の人々の人生や生活観が垣間見えるので、古道具屋に行くのが大好き。芸大に入って間もない頃、古道具屋で明治初期の絵ハガキを見つけました。よく見てみると、ビックリするくらい生き生きとしたタッチで絵を描き、文字も綺麗なのです。

私も同じように書きたいと思い、当時の人が使っていた「矢立」と呼ばれる細い和筆と墨壺で絵を描いたのですが、使いこなせませんでした。というのも、細い筆の圧力や紙の抵抗を上手く感じられなかったからです。そこで、電話の控えもカレンダーの書き込みも、授業のノートもデッサンなど、日常のあらゆる場面で和筆を使い始めました。今では、筆を身体の一部のように使いこなすことができます」

「矢立」によって、アラン氏の絵の繊細なタッチはさらに磨きがかかったという

写真は、アラン氏の和筆と墨壺を組み合わせた携帯用筆記用具「矢立て」とスケッチブック。筆を身体の一部に感じるくらいに使いこなすため、常に携帯しているという。(写真=The 21 online)

 

アーティストの仕事は内面の追求だけではない

芸大を卒業後、アラン氏は台東区谷中にアトリエ兼ギャラリー「繪処アラン・ウエスト」を構え、注文制作を始めた。ただ、これだけの絵を描くことができるのに、なぜ画廊と契約をしなかったのだろうか。

「理由は簡単で、画廊から声をかけられなかっただけです(笑)。また、1つの画廊と契約したからといって生活は保障してくれませんし、契約すると他の画廊で展覧ができないという制約がついて回ります。これでは、自由な創作活動をしにくくなります」

アーティストとして、生計を立てるのは難しい。ただ、注文制作を始めたのには、もっと大きな理由があるという。

「私はいかに『相手をもてなす絵を描くか』を信念に仕事をしています。自己完結した絵よりも、依頼主に喜ばれる絵を描きたい。ですから、飾る場所や絵を眺めるシチュエーションなどを徹底的にリサーチしてから制作に臨みます。互いに意見を交わしながら完成した絵を喜んでくれると、何とも言えない達成感があるものです」

こうした打ち合わせを通じて作り上げた作品には、思い出深いエピソードもあるのだという。

「結婚記念日のプレゼントとして、奥さんに花の絵を贈りたいという依頼がありました。絵の内容だけでなく、プレゼントするシチュエーションまで打ち合わせたのでとても印象に残っています。依頼主が偶然を装って私のアトリエに入り、サプライズで奥さんへプレゼントする。驚きながらも喜ぶ奥さんの姿を見て、私もこんな夫婦になりたいと思いました」

私たちは、「アーティスト」と聞くと、自分の世界観を表現するために内面を追求する特殊な職業だと思いがちだ。しかし、アラン氏は、いかに相手を「もてなすか」を考えて仕事をするという。人を喜ばせるのはどの仕事も同じ。アラン氏の仕事は、忘れがちな大切な姿勢を思い出させてくれる。

アラン・ウエスト(あらん・うえすと)日本画家
1962年、ワシントンDC生まれ。98年、カーネギーメロン大学芸術学部絵画科を卒業後、東京藝術大学日本画科 加山又造に師事。99年、台東区谷中にアトリエ兼ギャラリー「繪処アラン・ウエスト」を構える。注文制作を中心に、植物をモチーフとしたさまざまな作品を手掛ける。(写真撮影:まるやゆういち)(『The 21 online』2017年9月号より)

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